日本語は言語と人間性の融合で伝わる言葉

はじめに

昨今ツイッターのような文字を使ったコミュニケーションツール、またはネットワークを介した言論の場でいたたまれない気持ちになることが多く、日本人の多くが愛用しているツイッターでなぜそのようなことが起きるのかについて僕なりの観点から整理をしてみたことを記していきたいと考えこのような記事を書くことにしました。

日本語といった言語の特徴

日本語はよく言えばオブラートに包んで相手に感情、伝達したい気持ちを言葉に起こして伝えることができる言語だと考えています。
逆の視点で表現すると、ビジネスのようなはっきりとした伝達を行わなくてはいけない場合文字の長さとしても英語と比較して長くなってしまうといった特徴があると考えています。

英語のように5W2Hを意識して文章を組み立てるとどうしても英語圏にかぶれた人間のような言葉に聞こえるかもしれないが、必要な行動としては具体的に相手になにをいつまでにどのように行動してほしいのかを伝えなくてはいけないと考えています。

ただ、日本語は音階として常にミの音を連続して発することができるなど、音として捉えると非常に単調に聞こえる言語としても使えるため、うまく間を活用したり、強調を音量で表現して伝える必要があると感じています。

このような特徴があると前提条件として考えた場合なぜ冒頭でお伝えしたいたたまれない表現、争いが起きているのかの根本的な原因を探ることができるのではないでしょうか?

日本語は人間性を持って伝えるべき言語なのかもしれない

日本語は前述したように音的表現、言語の使い方で曖昧な表現をすることができます。
これはあくまで僕の意見ですが、ツイッターのような場を見て感じることは、相手を敬う気持ちなどなく、単に己の欲求を満たすだけのために相手を陥れよう、といった明確な目的もなく無差別に口撃している様子が伺えます。

相手の顔が見えないからこそ、相手がどういった人間で、どういった生活をどういった背景のもと同じインターネット上の空間で言論を行っているのかの想像力を踏まえ、相手の立場に立ちながら、想像力をフルに回転させながら会話、やり取りが必要です。
しかし昨今、相手の立場より己の立場、己の感情、己の欲求を満たすために相手がどういう状況かも考えず、口撃しIPアドレスの開示請求などをされたものなら、僕にも理由がと嘆く方が多いですね。

IPアドレスの開示請求を行われ場合によっては請求をされ、払えません、と開き直るのであればなぜ最初から「しない」といった選択を取らないのでしょうか?
相手を敬えとか、俺をなめるなといった発言、表現は僕の意見として「評価するのはあなたではなく、あなた以外の人があなたに対しての評価を行い、それが共通の評価となる」といった事に何故気づいていないのでしょうか?

ただ、敬うことで避けられる難問や難関、そして根から相手のことをまずは敬い問いを立てることになんのハードルがあるのでしょうか?

お金がないからやっていいの発想は心の貧乏症候群

どこの誰かが作った金銭の概念、僕は心の豊かさが結果として金銭にも現れると信じています。
40になったら己の顔に責任を持てと言われましたが、40になったときの自分の醜さは40年間の醜さの累積レイヤーです。

もしあなたが40歳を超えていて心の醜さが顔に出ているのであれば、この先40年間でその醜さをどのように精算するかを考えることはできるのでしょうか?
僕が思う醜さとは造形としての醜さではなく、表情の醜さです。僕は表情がない、または表情が乏しい方はどんなに美人な方でも、イケメンな方でも非常につまらないと感じてしまいます。

誰に対しても愛想が良いと言ったお話とはまた別物で、必要なところで表情を変えられることは1つ人間の技術として卓越したものだと考えています。
もしあなたが自分は醜いと感じているのであれば、それはあなたの心ではないと考えます。本当に醜い人は自分が醜いなんて微塵も思ってないからです。

お金がないから俺は不幸だ、といったその「お金がないから」は何を持ってお金がないといった表現にたどり着くのでしょうか?
世の中にはお金持ちの上限を見ればきりがないし、貧乏の下限を見ればきりがありません。本当にあなたに必要なのはお金なのでしょうか?為替でドルと換金できる円なのでしょうか?

僕はお金持ちではありません。ただ、そのお金持ちではないと言った表現、根拠は自分がゴールとしておいている「お金持ち」の定義との乖離を見た上での発言になります。
段階を踏んで次のステップへ、自分が想像するお金持ちへの階段を毎日登っていくのが楽しいです。

今感じている不自由はお金持ちになったら感じられないかもしれませんし、いま不自由な状況を自由にあーでもないこーでもないと考える余裕があることはとても楽しいし、どんな金銭にも変えられない貴重な一瞬だと思います。

日本語、人間性、そして己との向き合い

日本語を話すとき、僕は非常におどおどしていると思います。昨今相手の反応が非常に読みづらい表情の薄い方が多く、相手に意図しない形で物事が伝達されたときの不快な表情だけはいっちょ前で、すねられるような状況に非常に神経を使い、頭をフル回転させてこの人にどのように表現したらうまく伝わるだろう、と常に気を張っています。

日本語はとても頭を使うし、相手の人間性もよく見える言語だなと日々感動し、日々衝撃を受けています。
自分の中で日本語と言った言語をマスターするには、使い続けることはもちろん、人間性を磨くことによって言葉の重みを更に重く出すことがゴールなのかもしれません。

人間性を磨くことによって、日本語を使うことの高尚なレイヤーに進化できる気がしています。
なんとなく省略したり、なんとなく使ったあの言葉、四字熟語で表せる情景といった1つ1つが重みと言葉に載せられた歴史といった形で、毎日が発見です。

故に冒頭でツイッターと言った言論の場で僕が目にする多くの言葉の羅列がどれもこれも「お金を稼ぐ」といった非常に短期目線の端的な発想、発言ばかりで最近はツイッターを閲覧する気はまったく起きません。
言葉を使える、言葉を使って知識を吸収できる、そんな当たり前を当たり前にできるこの自分の環境にまずは感謝して、己の物語を引き続き紡いでいきたいですね。

日本語をもっと深く広く、そしてその深さと広さに耐えうる己を日々鍛錬していきたいものです。
ポッドキャストのような音声で言葉を紡ぎ、人間性、そして自分の好奇心に正直に生きていくと改めて決心した一日でした。

明日にはまた明日の風が吹くことを信じ、本日の筆を置き、白紙に連ねられた文字を眺めて眠りにつきたいと思います。
弊社本年3期目に入りました。3期目は大きく動かすためにも仕組みづくりと言った点から深ぼっていきたいと考えています。

人生楽しんだもの勝ちです。人生楽しんだ者にしか感じられぬ人生の価値、存分に吟味したいと思います。