生きづらくなったら一度立ち止まるってのはすごく贅沢な話なのかもしれない

はじめに

人生生きづらくなったときに休んでいいんだよ、と言ってもらえる、自分自身に言える環境というのはとても贅沢な環境なのかもしれない、といった話についての気づきを自分なりに整理する殴り書き程度の読み物です。

立ち止まることができる、期限はとりあえず決めずに、そんな贅沢な時間を過去に経験したのであれば日銭をどのようにするかなども考えなくていいのかもしれないです。
ただ、そういった環境は実はとても贅沢であり、周りのお陰で実施できていることなのかもしれないと、感謝をするきっかけになるかもしれません。

今回は立ち止まること、その際に何を決めるかだけは決めて立ち止まる、休憩することも長い荒い道なりを乗り越えるためにも必要なスキルなのかもしれないと考えています。

何かを決めて立ち止まる、そのなにか

期限とやらないことを決める、そう自分自身はいつも決めて立ち止まります。

やることを決めるのではなく、やらないことを決めるのには理由があります。
自分自身が止まるきっかけになったものがネガティブ起因であれば何かをやったから、不得意なことを?または慣れていないことを?やったゆえに止まってしまった、回復のために必要な休息が発生したと考えると、その事象をやらない、またはその原因を起こさないためにやらないことを決めるといったことは実施するようにしています。

あとはいつまで立ち止まっていいのかを1週間、3週間と奇数単位で決めています。

逃げるのではない、チューニングである

逃げるというのはすごく加害者視点の発言です。
かといって加害者の対義語である被害者の話をしているわけでもありません。

二択の世界ではなく、相反する状況での自分をチューニングする時間と術を手に入れているだけです。

チューニングはいついかなる時も大事です。
自分自身の機嫌、アンガーマネジメントすべてにおいてチューニングが必要です。

壊さないように、そして自身の夢にために一瞬の感情に乱れに流されないように気をつけたいと思います。