インターネットに意見を求める行動に対しての疑問

はじめに

最近SNS、特にXであったり、Facebookのような文字ベースのプラットフォームを閲覧することにワクワクしなくなってきました。
特にXに関してはリストをデフォルト表示で閲覧していた自分からすると公式アプリの特性故のHomeがデフォルト表示のため、「あなたが興味ありそうなコンテンツ」が優先的に表示されてしまいます。

では、なぜ今回タイトルにもあるようなインターネットに意見を求める行動に対して疑問を持ったのかについてですが、インターネットに意見を求める=自身のことを知らない、意見をくれた人の人生背景も知らない、そのような意見のやり取りってどういった意味があるのだろう?と不思議に感じたためです。

ここ数ヶ月間、日に日にインターネットに意見を求める、そういった行動を多く散見します。
今回はSNSにフォーカスした上で、インターネット(SNS)に意見を求めた結果どういった見返りがあるのか?について考察してみたいと考えています。

コメントをする人々の私的見解

まず、YouTubeやXにいわゆる有名人、芸能人含むトップYouTuberと呼ばれるような人を対象に話を展開していきたいと思います。
よくアップロードされた動画に対して賛同的コメント、否定的コメントをされる方が多くいますよね。僕はそもそもそういった会ったことのない人に対して己の意見を肯定的だろうと、否定的だろうと物申す行動がいまいち理解できませんでした。過去形で表現していますが、現在進行系で理解できません。

肯定的なコメントに関してはなんとなく理解できる感覚はあるのですが、否定的なコメントをする行動心理がまったくもって理解できないのです。

なぜなら、相手に会ったこともない、そのような人に対してよくもまー物申せるな〜と日頃引用ツイートだろうと、リプライだろうと感じます。
そしてこれはあくまで僕自身の感じ方であって、そういったいわゆる「推し活」の一貫で「応援してます!」とか「曲聴きました!かっこいいですね!」とかそういうのは、僕も新曲かっこいいと思った!と共感するものも散見されますが、「新曲ゴミだな!」とかいわゆるアンチコメントをする感性がなかなか論理的にも理解できない状況です。

結果として自分とは違った感性で、相手に(会っていようが会っていまいが)物を申したい!という人が一定数いるんだなといったところでピリオドを打ちました。

加えて身近にコメントを頻繁にするといったリアルな調査対象がいないため、結論としまして以下のように締めることにしました。

コメントをする人の行動心理は理解できませんでした

SNSに意見を投稿する心理に対しての私的見解

よく「私の彼氏/彼女がこういう事言うのですが、それって普通ですか?/よくあることですか?」と第三者の意見をインターネットに求めている投稿を目にします。

あとは「車の修理代金をいつもお世話になっているショップで見積もり出してもらいました。これって相場ですか?」とかですね。

僕個人的に当事者に関する疑問をインターネットに投げる時点で現実から逃げているのか、はたまたインターネットから得た内容次第で相手に「ソースはネット」で、と反論するのか?とても気になっている点です。
そしてどちらかというと今回の記事のフィーチャリングポイントはこの点です。

恋人がこういう事を言うんですけど・・・「相手に直接聞かないんですか?」「相手と対話しないんですか?」と毎回感じます。親切心で回答している方もいますが、あくまで空論の前提のもと話が進んでいますよね?

相手が不機嫌になったんですけど・・・といったような些細な内容でも大抵の場合投稿主さんが意識している点ではない前後での言動がきっかけで不機嫌なのかもしれませんよね?または不機嫌に見えているだけで実際は悲しんでいるのかもしれませんよね?

そういった両者の意見を聞かずして、回答する方もどうなんだろうなー?と感じるときもありますし、本当に全体に嘘偽りなく投稿の文章に含んでいるのか?大抵の場合自身に不利な点は省いているよね〜、僕は省いちゃうもんね〜とか考えると本来の最適解から大きく外れてしまうこともあるのではないだろうか?と感じてしまいます。

車の修理代の見積もり高くない?と感じたところで、自身が納得できないのであればショップの方にお伺いを立てるのが筋だと感じる人間なので、余計に「こういったお客様を対応されるショップの方も不憫だな・・・」と感じてしまったりもします。

SNSってどちらかというと一方通行のコミュニケーションだと思います。相手の顔もわからないし、背景も知らない。そういった中で相手に意見を述べるってなかなかリスキーですよね。

対面通行のコミュニケーションとおっしゃる方もいると思いますが、僕は文面でのやり取りの時点で一方通行だと感じます。対面通行なのは、リアルタイムで面で対になっているとき(いわゆる向き合っているとき)しか対面通行のコミュニケーションとは呼べないなと考えています。

リアルな世界でもSNSの影響は色濃く出ている

よく車社会で煽り運転だ!とかいったニュースを見ますが、僕も実際車ではトラブルに巻き込まれる方です。

そういった時に感じるのが「相手がどんな人かもわからないのによくもまーあんなに煽るねー」といった点です。相手がバチバチの日本刀でもお仕事されてるような方だったら?クラブのボディーガードがお仕事の方だったら?メタルバンドのボーカルだったら?どんな風に切り刻まれ、殴られ、怒鳴られるやら・・・と想像しただけでおぞましいです。けど、ここからは偏見も交えてですが、もやしのような自動車のサイズ=自身のボディーサイズと勘違いしているような方があおり散らかしていたりするのを散見すると逆に「大丈夫かな?生きて帰れたかな?」といった心配をしてしまいます。

相手がどんな人かわからないのに、気安く絡むのは結果として急いでいるのであれば、逆に時間がかかってしまうか、目的地に辿り着く前に棺桶の中に強制送還になってしまいますよ・・・と感じます。

さいごに

まとまりを求めての投稿ではありませんが、SNSで意見を求める前に当事者で対話したほうがいいよね、相手がどんな人かわからないのに、インターネットを介して目に見えてる部分を引用してのディスは逆効果だよね、車社会でも相手の顔も素性もわからないのに絡むのは命のショートカットだよね、といったところが最近頻繁に感じた点だったので、吐き出しておきたくなり書いた所存です。

インターネットでも、現実でも発言の自由はあります。ただ、自由というのは責任が伴うとよく言いますが、自由を維持したいのであれば、相手を思いやる心を一層強く持つことで、自由な発言が許される社会が永続的に続くことでしょう。

なんでもかんでもそうですが、自由だからと無茶苦茶にやってしまう、発言してしまうとどんどんルール、法律といった形で縛られていくといった流れは小学校でも皆さん体感しましたよね。

今年も本日で終わりですが、来年も自由に生きていきたいと思います。良いお年を。